昭和四十三年十二月五日 朝の御理解
御理解第四十五節
「世に、三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」と、あります。
ここに世に三宝様と、こう言うておられますが、三宝様という事は、穀物の事を言うんですねえ。米とか麦とかという粟とかといったような穀物、これは命の根になる物、ね、命の元になる物ですから穀物を大事にする。私共、子供の時に言われました。「御飯粒やらを踏みつけたりすると目が潰れるぞ」と、よく言われたんですねえ。そういう意味なんです。
そこで、ここ、あの三宝様という事をもっと広く頂きますと、所謂、その命の根なるもの。ね、言うなら私達が本当に幸せになるもの、幸せの元になるもの、ね、幸福の根とも言うもの、それは勿論あの心です。ね、人間の、私共の心次第で幸福にもなりゃ不幸せにもなる。どんなに沢山な物やら金やらの中に埋まるような事があっても、その人が必ず幸福という事ではないのです。幸福というのは心次第ですから、その心をいよいよ豊かにし、心をいよいよ強いもの、いわゆる心の糧と言う事を申しますねえ。心が豊かになる、心が健全、強くなる為にはどうしても心の糧がいる、その心の糧になるものを私共は言わば踏みつけたり粗末にしたりしておる事はないだろうかと思うてみなければならん。今日はそこのところを頂きたい。
だからそれも三宝様という事が言えると思うんですねえ。私共の肉体には三宝様は命の根である、穀物は。だからそれを粗末にしたり踏みつけたりするような事では、ね、立ち行かんと。いわば目が潰れるという事はねえ、そういう事だと思うんですねえ。普通の言葉で言うなら、そんな事をしよるとバチかぶるとこう言う訳なんです。
そんなら今度は心の根、ね、それを心の糧になるもの、ね、心の糧になるものを踏みにじったり粗末にしたりしたんでは、これはおかげになりません。おかげになりません。それこそ目が潰れます。信心するものは肉眼を置いて心眼を開けよとおっしゃる、心眼がね、潰れます。心の目が。そこで私共はですね、どういうような事が心の糧になるのやら、心が強くなるのやら、幸せの根であるものは心だが、その心が幸せになるような育ち方をする為にはどういう糧が必要かという事になります。心の清まるような話を頂く。有難いお話を頂きますと、なんとはなしにそれを一般では心の糧だと、こう申しますね。心の糧になるような良いお話を聞こう、心にね、心に与える訳です。けれどもねえ、本当はそんなもんじゃない。例えば、私共は様々な問題がございます。その様々な問題の中には、いやな問題もありゃ難儀な問題もある。痛い痒い思いをするような問題もある。そうゆう例えば問題をですねえ御粗末にする。それを私共が信心で頂く。それを分かるところを分かって頂く。いうならばそれは私の心をいよいよ豊かにして下さる事の為の糧だ。いよいよ自分の心を強うして下さる事の為の糧だと。まあこの辺の所は、もう少し具体的にお話したいけれども、皆さんよく分かっておられる事だと、ここで御理解頂いておる。言うなら一つの問題一つ一つを実意をもって、それを困った問題であっても、それを邪魔者にせずに、それを有難く、それを心のいわば健全に、心が強うなる、心が豊になる事の為に、それを黙って頂くと、まぁいう訳ですね。
今日私、この四十五節を頂きましたけれどもね、そのどうゆうような事をこの四十五節から下さろうとしておるのであろうかと、もう度々ここんところは頂くところですから、どういうところから頂くのであろうかと思うて、御神訓を開いてみました。
そしたらね、「清き所も穢き所も隔てなく 天地乃神は御守りあるぞ 我心に不浄を犯すな」と、ここんところを頂くのです。全然、こうかかわりあいがないようですけれども、よくよく頂きよると、ははあこの御理解四十五節の「三宝様を踏むな」という事と、「清き所も穢き所も天地乃神は御守りあるぞ我心に不浄を犯すな」という事はね、どうゆう繋がりがあるだろうかとこう思うんですけれども。
勿論、不浄というのは、さんずいに争うですかね。これは、さんずいというのは、まぁ自然の流れという意味でしょうね。自然の流れの中に様々な問題が起きてくるという訳なんです。それと争わずにね、それと仲良うするという事。起きてきたその問題と争うのではなくて、それを争うのと反対に、それを大切にする、仲良うする。その中から御神意を分からせて頂いて、さっきから言う心の糧にしていくようなおかげを頂かなければならん。
と、いう意味とです、お道でいう不成は成就しない事ぞと、おっしゃておられますね、四神様は。不成とはふなりと書いてある。不成。例えばお願いをすると、お願いが不成就に終ってしまう。その不成に終ってしまう事を神様は嫌いなさる。神様の願いが私共一人一人の上に成就してゆく。天地の親神様の願いが一人一人の上に成就してゆく。そうゆう事を天地の親神様は願うて下さってある。そこを「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」と、おっしゃるのはそれなんだ。「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」とゆう切実な親の願い、神様の願いというのがある。その願いが成就しないというのですから、これは神様に対して相済まん事になる訳です。
普通で言う不浄というのは、ね、女の方の赤不浄とか黒不浄とかと言うような事を申します。あちらの家は不浄がかかっておるとか、今私の体には不浄があるからといったような事を申しますけれども、そうゆう事はお道では不浄とは言わない。お道で言う不浄は、成就しないという事。私共の願いが神様の願いが成就しないという事。勿論この辺のところをただ自分の願いが成就しないというだけではないようですね。神の願いと氏子の願いが、この成就しない。神様が私共の上に願いをかけておって下さる願いが成就しない。神様の願いが私共の上に現れて、それが成就する事になる事は、もう私共が最高の幸福を得ることであり、幸せになる事である。だから「どうぞ神様、あなたの私にかけて下さる願いが成就致しますように」と言うて、この願うようになる。願うとゆうてもそうゆう願いを持たしてもらう信心の内容が望まれる訳ですね。
どうぞ私に金儲けさせて下さい。どうぞ私を健康にして下さい、と言うだけではなくてですね、その願ってもよいけれども、その健康が、又はその金持ちになる事がです、神様の願いと一致していかなければ駄目。その辺も日頃いつも頂いておる事ですねえ。
そこで問題はこの「清き所も穢き所も、隔てなく天地乃神は御守りあるぞ」というところ。これはどうゆう事かというと、いわゆる人間誰しも氏子一人一人の上にです、天地の親神様の御守り下さる事に於いては隔てがないという事。あちらのお家にだけ幸せを送ってやろうと、あちらのお家にだけ不幸せにしてやろうというような事はない。皆んな、なべて一様におかげを下さってある。天地の親神様の御守りは、言わばそれは場所でするならば、清い場所でも穢い場所でも神様のお守りの上に於いては同じ事だと。
昨夜、青年会の幹部の方達が集まりまして、今度八日の日に久留米地区の十何箇所の教会の青年信徒が集まって信心共励がございます。その、信心共励をするテーマが「親の立場、子の立場」といったような事をテーマにして、それを検討し共励し合おうというのでございます。そしてここが受け持ち教会に当たっておりますので、その事を、事前(ことまえ)に一遍検討しておこうというので、その事について、昨日十四、五人の方が集まっております。
その一人一人がその事について発表しておられますのに、もう私は最近、青年会の方達の仲間入りを致しませんので、どうゆう風に信心が育っていっておるか分かりませんけれども、まぁ本当に驚くばかりに段々信心が分かっていきよんなさる。これは少年少女会の上に於いてもそれを最近思ったんですがね。本当にあの何と言うですか、私はタッチしない。いうなら放任主義。合楽教会の青年会、合楽教会の少年少女会といやぁ、その中心は私、教会長である私であるはずですから、私が育ち方が分かっておらんといったような事は不思議なごとあるけれども、私が放任しておるというのは、その場にタッチしないだけであって願いに於いては変わらないはずなんです。ですから、私が育てておるのじゃない、ない、神様がお育て下さっておるなあという事を感じるんです。
もう昨日の一人一人の、その話を、ね、皆さんに聞いてもらいたい程に、あの思うんです。素晴らしいなあ、もう全然これは親の立場とか子の立場なんていったようなテーマそのものが、もう合楽の方達の場合には、少なくとも昨日集まっておった人達の場合にはです、全然問題になっていない事ですね。
何故かというと、その成程親の立場もありゃ子の立場もあるんですから、親の意見も子の意見と対立もあるけれどもです、結局合楽の場合はですね、そんなら親先生はどげんおっしゃるかという事になっているんですよ。そこで全部解決してゆく。その一番最高の解決の方法をもって解決してるんですねえ。ですから、人の立場に踏みいる事がないのです。
今朝、私、御神前に出らせて頂きましたらね、あの、菊の花がいっぱいこう植わっておってね、それに花が、大体は大輪の花が咲くような感じの花ですけども、あんまりいっぱいにこう植えてあるもんですから花が小さい。それを縄で一括りに括ってあるところを頂いた。どうゆう事であろうか。はあ、この花を例えば鉢に植えるとか、もう少しくけるとか、その花一本一本が立ち行くようにしてあげたら、もっと幹ですかね、幹も大きく、大きな葉が出て、そして勿論大きな花を咲す事がでけるであろうけれども、あんまり一緒にしてあるもんだから花も小さい茎も小さいという感じなんです。
それを頂いてから、私は昨夜の青年会の事を思うてみたんです。その持ち場立場といったようなところをですね、人の例えば、持ち場とか立場に立ち入らない。親が子の立場に。成程それは言うとです、その子供の事を思うから、思うから中に入っていこうとする、親が。
これはここの青年会、少年少女会の場合でもそうなんです。適当に銘々でやっておる。それに私が入って行かないほうが、かえってよく育っておる。びっくりするごと育っておると。で、求め入れられた時には入って行かなければならんのだけれども、親が子供を思う時に、もうまるきり、その老婆心ですよねえ、こう言うてやらなければ、こうしてやらなければもうやりそこなうように心配する訳です。そして、そげなこつじゃいかん、こげなこつじゃいかんぞと言うて、勿論自分の方の体験を語って聞かせるけれども、子供にはそれがけむたがられる。ね、どうも思想の相違だと、考え方が違うと昔のもんとは、今あんたごたるこつ言うたっちゃ今の若い者な聞かんばいと言うような事になって、そのいけないと。ですから、その、そうした放任するのではなくてです、あんな事じゃ子供がいけないと思うたら、その事を神様に願い縋っていかなければいけない。そしてそこの子供の立場の中に親が入っていったら、親も子も小さくなって小さい花しか咲かんごたる結果になる事だろうと思うたんです。今日私が頂いた事はです。
いちいちこれは例えば親子の場合だけではなくてもですね、そうですよ、お互いの生活の現場に於いてですね、自分の立場を守っていけばよいのに人の立場にまで入っていこうとする、又人の立場まで犯そうとする。そうすると向こうもやっぱりこちらの立場に入ってくる。そこで本当なものは生まれない事になる。神様は、あの人もこの人も清い人も穢い人も、清い所も穢き所も一様にお守りあってあるのであるから、その人の立場というものがはっきり出来て、その人その人の立場でいけばです、そこに大きな花を咲かす。いわば幸せの花を咲かす事は出来るのだけれども、それが出来ない。それが不成に終ってしまう。
私はそういう風にこの御神訓を頂いたんですよ、今日は。人の幸せまでも犯す。それは初め親切心(しんせつごころ)のようにもあるんですねえ。親が子供の生き方の上に注意を与えたりする事は。どげな風にやりよるかと言うて見てやる事は親心のようにあるけれどもです、それはあながちそれで本当の答、本当の結果は出てこない。それよりもむしろ、それを放任するというかね、そしてそこに昨日もう、昨日会合が済む頃でした。ここの御祈念が終ってから久富先生と久富繁雄さんが入ってみえられまして、親の立場として何か話を一言と言うて求められてから言うておられます。それに繁雄さんが言うておられるのに、その長男の国雄さんが、例えば、あのお百姓さんですからお野菜をひとつ作らして頂くでも、自分はこの田に何を作ろうと思うてある訳なんですね。白菜なら白菜を作ろうと思っておる。ところが国雄さんは大根を作ろうと思っておると、こういう訳なんですね。対立する訳なんです。そうゆう時に、繁雄さんはどう感じられるかというと、ははあこれだけ自分の信心が今間違うとったなと思うて、自分がひざると、こう言われるのです。いいや俺が白菜の方がよかち言われん訳です。そうすると国雄さんが昨日どういう事を言うておるかと言うと、うちのおやじは、もうどうも言わんち。ちっと言うてくれる方がいいと思うけれども言わん。だから何故言わんのか、人間がちょっと大人しくてから言おうごたるばってん言いきりなさらんのじゃろうと言う事になっとったんですよ。
ところが実際久富さんのお話を聞いてみますと、言いきらんとじゃない。そこにそれだけの差が出来ておるという事は、これは自分の方が間違うておるんだと分かろうとされる訳ですねえ。そんなら子供の例えば不行状を見てです、あげな事じゃこの人の将来の為にならんとこう思うと。そこでそんなら親が、お前は今のごたる事でどうするか、早う起きれ早く寝れ、さあ夜遊びどんするな、さあ金をしっかり貯めとかにゃと。例えば子供の為を思うて言いよるけれども、それは勿論親父はうるさい事だとしか頂かんのですよね。
そうゆう時にです、そんなら親が子供の上にです、子供が言う事を聞かん、危のうて見ちゃおられん。そんなら、おられん程に自分の心に猛反省をする。自分の心の中に神様から御覧になったら危のうしてこたえん所を通りよる事なかろうか。自分こそ親神様の思いに反した生き方をしておるような事はなかろうか。これは子供じゃない。私自身の事だとして頂いておりますと、こう言う発表があったんですよ。だから親の立場をですね、子供のところまで持っていかないちゅう訳です。かと言うと、又神様にお願いしてお縋りさせて頂きよると、国雄ここはどげんしようかね、私やこげん思うとる。ピタッと親の思いと子の思いが合う事がある訳なんです。ね、そうゆう時には、もう心から神様にお礼を申し上げますと、こう言われておる。ね、そこから親子の中に良いものが生まれてくるんだなという事を感じたんですけれどもねえ。
そうゆういわば生き方なんです。まちっと早う起きらなければ、こうしなければ、さあ夜遊びしちゃでけんと、それはもうそこは皆んな親から見りゃ危なく見えるけれどもです、見えるからというて子供の立場の中に入っていったんでは両方とも立ち行かん。小さい花しか咲かん。ですから、そうゆう姿の中にです、自分の、親自体の心の中にです、只もう放任しときゃええ、なるごとなろうと言ったような風じゃなくて、神様へ縋っての放任。
私が青年会の場合でも少年少女会の場合でも、神様へ縋って放任しておる、それと同じ事。そこには様々な所を通りよるけれども、通りながら銘々がいろんな事を分かっていきよる。銘々にそこから本当の良い花が咲くための準備が出来ていきよる。私は、この御理解を今日はそうゆう風に頂いたんです。
不成に終ってしまうような事がない為にも、私共が世に三宝様を踏むなと言うが、世に三宝様を踏むような事があったら目が潰れるぞと世間では言おうが、勿論これは穀物の事でございましょうけれども、心の糧としてのもの、心が健全にならなければならない。心が成長しなければならない。心がいよいよ豊かに大きくならなければならない事の為の糧。その糧はどこにあるか。それを一般では、時々はよか話を聞かにゃいかんとこう言う。心が清まる。心が落ち着く。それではいけない、それだけではいけない。それも大事かもしれない。けれどもそれは、そん時だけのもの。そん時だけ清まるだけ。そん時だけ落ち着くもの。糧になると言う事は、たいした事はない。本当の糧というのは、もう現物を頂かなければ、実際のものを本当にご飯を食べなければ、食物を食べなければそれが力になるはずも、豊かに大きくなる育ってゆく事も出来ないはずです。只絵に描いた餅を見せられるようなもんです。本当の餅を頂かなければ元気にならんように心にも同じ事。
それは何かと言うと、自然の中に、自然の中に起きてくる様々な問題。自分の目の前に起きてくる問題。人の前じゃないですよ、自分の前に起きてくる問題。その問題の中には腹の立つ事もありゃ、痛い痒い思いをするような事もある。病気もありゃ災難もある。人との争い事もあるけれども、そうゆう問題をです、自然に起きてきた問題をです、ね、いよいよ自分の心の糧として頂く。
これが私は、本当の意味合いに於いての三宝様を踏まない事だと思うのです。ですから心の目はいよいよ開けてくる。そこに神様の願いが成就していくというおかげ。又私共としては、夢にも思わなかったようなおかげが展開してくるのでございます。
不浄の浄という字を私は、今日理解づけて考えますとです、さんずい偏に争う。さんずいとは自然に起きてくるもの、自分の所に自然に流れてくるもの、さんずいというのは。それと争う事は、もう不成の元を作る事だという事です。いわゆるおかげが成就しない元を作る事だと。争わずに、それを合掌して受ける。それと仲良うするという生き方こそがです、ね、成就、私共の願いではない、神様の、私共の願いだけではない、神様の願いであり、私共の願いが成就していく。
そのような事を、私は今日は、四十五節の全般的でないけれども、世に三宝様を踏むなというところとですね、御神訓の清き所も穢き所もと天地の親神様は一様に、氏子が全部どの子が憎いの可愛いのという事はない。神様としては、皆んなが可愛い。だから皆んな一様におかげを下さってあるはず。だからそのキャッチの仕方ひとつで幸(こう)にもなりゃ不幸にもなるのです、ね。
だからそうゆう頂き方をです、私共が本気で信心させてもらおう。本気で頂こう。本気でそうゆう生き方にこれからならして頂こうと、それを発心する。お互い信心によって幸せになろうと思う。そうゆう例えば生き方を私の、私のモットーにこれからしようという生き生きした、うぶな心というものをそこに頂いて、それを頂き続けると。
昨日、高橋さんの所の職人さんが、初めて最近入った小僧でございますと言うて、小僧というても、もう二十一、二(才)になる。お寿司屋さんを将来は開きたい、良い職人になりたいとゆうような願いを持っての、まあ、お店に働く事になりました、と言うて一緒に同道して参ってまいりました。そん時に、私が頂きます事はですね、「青木幸成」って頂くんですよ。今日、これお届けがあったんです。北野の青木さん所の息子さんです。皆さんにはすぐに分かるけれども、普通は分からん事ですね。青木というのは、いわゆる生き生きとした心という事なんですよね。幸成というのは幸が成るという事。幸せが成ると書いてある。それで私御理解を頂きましたら、初めの心を忘れなければ必ず幸せになると、幸せになれるぞというような御理解だったんです。それを私書いて渡しましたんですけれどもね。
例えばお店に入って、そして本当に一生懸命にお店の為に働こう。一番初めに入った時の、あのうぶな心を忘れなければね、幸せになれる。これを一生の掛け守りにせよと、いうような御理解だったんです。
ですから今日の場合でもそうでしょう。今日の御理解を頂いてです、本当に今日からの生き方を、例えばうぶな心で発心する。その発心した、その心が持ち続けられる事の為に日々さらな信心が必要だということになる。
例えば今日私が言うた事を一生守り続けたら、本当に大徳が受けられるですよねえ。それがしかもうぶな心で毎日その事を思うていきゃ。今日も、どうぞ心の糧をお粗末にするような事がございませんように、それを踏みつけるような事がございませんように、どうぞどのような事が起きてまいりましても、その問題を心の糧として頂きますというような心でいけばですね、もう絶対おかげ頂くですよ。これはお徳を受けないはずがない。それには、けれどもそのうぶな心が必要だという事になります。
今日は四十五節と、その御神訓と、昨日の青年会の方達の「親の立場、子の立場」というような中から、どう生きたが信心になるのか。おかげになるのかという事を求めさして頂いた訳ですけれども、四十五節の中から世に三宝様を三宝様を踏むなというところから、今日の御理解になった訳ですね。どうぞ。